30代夫婦+4歳児で暮らしています。
2023年3月に私が退職、4月には夫が退職し、夫婦揃ってセミリタイア生活に入ります。
一足先に退職してから早くも1か月以上が経ち、
に続く、1か月での気づきです。
セミリタイア1か月で気付いたこと 生産性について
「生産的な人」「生産性を高める習慣」など、建設的であることが正しいという価値観を持っていました。改めて「生産性」とは何か調べてみると、
生産的という言葉の「生産」とは、生活に必要な物資などをつくりだすことや、人間が自然に働きかけ財やサービスをつくりだす活動を意味します。生産的とは、自分から物を作り出すさま、有効な結果が期待されるさまを意味する言葉です。
https://reibuncnt.jp/14486
対義語は「非生産的」で、こちらの意味は
意義のある成果をろくに生み出さないさま。生産的でないさま。
https://www.weblio.jp/content/非生産的
成果をろくに生み出さないってずいぶん強い言葉な気がするんだけど、それはまあいいや。
長いあいだ、特にまだ若く体力もあるうちは「人は生産的でなければならない」と思っていました。
そして、私は自分ひとりの力では会社で働く以上に生産性のある行動はできないだろうから、私にとって生産的であること=会社で働きお給料をいただくことだとだと思っていました。
この1か月、ふとした時に「辞めてよかった」と自分に言い聞かせていることに気付き、仕事をしていてもらえるのはお金だけでなく、自立していることでの精神的な安定もたしかにあったことを再認識しました。
セミリタイア1か月で気付いたこと 罪悪感について
上に書いたようなことを感じつつ、しかし1か月経ったいまも生産性がないとされる生活を送っていることに罪悪感は(今のところ)ありません。言い聞かせてるしね。働かない自分を受け入れられるのかと思っていたのは事実だし今後どうなるかわからないのですが、一方で”今日も仕事がない”ということが新鮮にめちゃくちゃうれしい。
先日振り込まれたお給料を見て、あの日々にはこれだけの金銭的な価値があったのかということに、離れたことでこれまで以上の驚きを覚えはしましたが、やはりお金はわかりやすいけれど生産性の指標にはならないのかなと思いました。
もちろん生きていくにはお金が必要だし、賃金は生産性を換算したものだと理解しつつも、振り込まれるお給料の対価として具体的に私が何を生産していたのかについて、いまだに答えを持てないでいます。ものごとを俯瞰で見れないからだと思うのですが、元自社に限らずなのかもですが、会社において生産性を高めていくことが、回り回って結局なにに行き着いていくのかが、10年働いてもまだあんまりよくわからないなという感じです。
そのような感じで罪悪感はないのですが、穏やかに静かな生活がしたいわけではないので、「自分のなりたい自分になれるのか」という焦りはこの1か月でより一層感じるようになりました。
セミリタイア、やっぱり資産形成しててよかった
新鮮な嬉しさを毎日感じたり、焦る気持ちが出てきても”とりあえず一旦リフレッシュしよ”と自分に言い聞かせられるのは、間違いなく資産形成してきたおかげです。
あと自分に対して漠然とした不安のようなものを持っているのですが、資産はそれを多少なりとも実際的に緩和してくれているなと感じます。
しかし今は時折ふっと掠める程度の罪悪感のような感情、この生活が1年続けばきっと大きくなっていくことでしょう。。。 怠惰な生活がしたくて辞めたのではなく、自己実現していくために辞めた。ということは、自己実現できなかったら・・・?という感じです。
お読みいただきありがとうございました。